Mail
Home
ホーム

 

〜ブラジルに渡ったドキュメンタリー屋さん〜
岡村 淳 氏

日時:3月28日(土) 
場所:日智文化会館 
インタビュアー:JICAシニアボランティア 国司和宏
2009年3月28日(土)。自らブラジル移民となり、一人でドキュメンタリー・ビデオの制作を続ける記録映像作家・岡村淳氏が来智。チリ日本人会主催による同氏のドキュメンタリー・ビデオ上映会が開催されました。上映会の直前、岡村氏をブラジルから招聘したJICAシニアボランティアの国司氏にインタビュアーとなってもらい、同氏の人となりを紹介していただきました。

  1. 映像の対象となる方への尊敬、愛情、興味を来場者に伝えたい

インタビュアー国司氏(以下A): この度はインタビューの機会を頂き、有難うございます。 
岡村氏(以下B): こちらこそ、本当に嬉しく思っています。 
A: 岡村さんは、以前にもチリにいらしたことがあるそうですが?
B: はい、チリへはこれで2度目の訪問になります。前回は2001年に来ています。 
A: 当時はチリに対してどのような印象をお持ちでしたか?
B: そうですね、当時は本日上映させていただく植物学者、橋本梧郎郎先生のパタゴニア調査の映像記録班として6名のチームの一員として同行させていただき、チリとアルゼンチンにまたがって移動していました。チームの一員だったので、あまり自由な行動は出来ませんでした。その時のチリの印象というのは、3Cやワインといった知識しか持っていませんでしたし、ピノチェトの問題もあって、正直言って「きな臭い」「怖い」イメージがありました。でも、橋本先生と一緒にサンティアゴの国立博物館にった時に、特に女性と子供がとても人懐っこくて、そのノリのよさがとても意外で印象に残っています。 
A: 今回はフリーでこられているわけですが・・・。 
B: 今回、空港で国司さんたちに迎えていただいたので言葉の問題もありません。個人的な印象としては、日本人やブラジル人にとってはブラジルが南米の代表といったステレオタイプを抱きがちだと思うのですが、それを見事に突き崩された感じです。自分にとって南米のステレオタイプだったブラジルと比べて、街の色や空気など似ているけど違う部分、違うけど似ている部分がたくさんあって、ひとつひとつがとても刺激的です。 
A: 今回はわざわざご足労頂いて岡村さんの作品をこちらチリで上映させていただくわけですが、ほとんどのチリの方にとって岡村さんの作品は初めてだと思います。上映にあたって、チリの日系人に「こんな点を見てもらいたい」と思うことはありますか?
B: 同じ南米にいる日本人のドキュメンタリーなので、いろんな面で興味を持っていただけると思います。素材となる人の豊かさもあって、日本のテレビ局が作るドキュメンタリーとは違うものを作っているつもりですので、そういった点で興味を持っていただけるだろうというのがまず一点。 

http://www.camarachilejapon.cl/share/images/B5/okamura-san/1.jpg
もう一つはそれを越えて人間としていかに生きていくべきという自分なりのテーマがあって、僕自身がなぜこんなことをしているのかということとも関わってきます。基本的に最近僕がしている仕事は、僕自身が、尊敬・愛情・興味を抱いている対象から教わっていることおよびそこから来る感動を見ている方に伝えたいと思いながら取り組んでいるものが多いです。そのため、南米日系人という枠を超えて、同じ地球で生きている人間として見ていただけたら嬉しいです。個人的には、上映会でどのように見ていただけるか、その反応も今までのブラジル、日本、台湾、アメリカでの上映会では楽しみにしてきました。 
今回ブラジル以外では南米で初めてチリでも上映するわけですが、例え数人でも見ていただいて、その反応を見ることが出来れば嬉しいなと思います。
■長寿番組「すばらしい世界旅行」の仕事を通じ南米を知る 
A: 今のお話をうかがっていて、岡村作品の本質が赤裸々に語られたと感じましたが、そもそも岡村さんが映像の世界に入ったきっかけというのはどういったものだったのですか?
B: 僕はもともと中学・高校と映画少年だったんです。当時はビデオなんてない時代でしたが、東京に住んでいたこともあってオールナイト上映や試写会に通いながら、年間300本くらいの映画を見ていたと思います。なおかつ8mmで自主制作映画を作ったり、高校で16mm映画の自主上映をしたりしていました。 
大学に入ってからは逆にサークルで見る映画がつまらなくて、何か現場に出たいと思うようになって、卒業後は日本映像記録センターというドキュメンタリーを専門に作っているところに入りました。ここで、かねてからあった遺跡・少数民族への関心と映像を兼ね合わせた仕事をしてきたわけです。 
A: その日本映像記録センターで出会ったのが南米だったんですね。 
B: そうです。僕は大学の頃、縄文時代と現代の日本文化との繋がりを専門にしていたんです。   あの強烈な縄文文化が今の日本人にどのような影響を及ぼしているのか、普通の主婦が作っていたといわれるあの特徴的な土器が今とどのように関係があるのか、なんてことに興味を持っていました。その他にもアイヌや、朝鮮半島/台湾などの先住民に関しても興味を持っていました。 
日本映像記録センターに入ると当時長寿番組として日本テレビで放送されていた「すばらしい世界旅行」という番組(25年間放送された TVドキュメンタリーの草分けともいうべき番組)が第三世界の国々の少数民族を紹介していて、その中の目玉特集が「大アマゾンシリーズ」だったんです。アマゾンの裸族を紹介すると視聴率が良くて、番組が日曜の夜7時半からだったのですが、プロ野球なんかとの視聴率争いに勝つために、4月と10月に「大アマゾンシリーズ」を放送することが多くなりました。 
このシリーズは豊臣靖という方がディレクターをしていて、すばらしい仕事をしていたのですが、1986年に51歳で亡くなってしまい、その後を僕の先輩にあたる方が引き継ぎ、そのまた後に僕がブラジル・アマゾンに送り込まれるようになったんです。それまでは、ブラジルのイメージといえばお恥ずかしい話アントニオ猪木くらいでした。
■「現場の都合に合わせたドキュメンタリー」の醍醐味 
A: ブラジルと出会われて、比較的早い時期にフリーになられたようですね。 
http://www.camarachilejapon.cl/share/images/B5/okamura-san/2.jpgB: そうですね、結局5年間日本映像記録センターでサラリーマンのTVディレクターとして働きました。実際は、日本の放送のスケジュールに合わせて撮影をするんですが、生物や自然現象だとなかなかそう都合よくはできないことがありましたね。それで、現場の都合に合わせてドキュメンタリーを作りたいと思ったんです。同じ頃、ブラジルから日本に留学していた日系2世の女性と縁があって、彼女と結婚し、日本に住むつもりだったんですが、そうなると彼女は仕事ができないですし、考古学や映像関係の仲間でも外国から奥さんを連れてきて幸せだった例がありませんでした。1年の半分は海外で、残る半分のうち半分は会社のロッカールームに泊まりこむような生活をしていたので、その状況で妻を日本に住ませても悪いと思って、「じゃあ僕がブラジルに行けばいいんだ」ということでブラジルに移住することになりました。それが1987年のことです。
A: そこで岡村さんの作品作りがスタートし、ブラジルの巨大な日系人社会を追究していくことになったんですね。 
B: 移民してからも、しばらくはディレクターとして民放向けの1時間番組を企画したりしていたんです。それまでの経験から移民ものは視聴率が取れないとわかっていたので、それを企画する気持ちもあまりありませんでした。日系人が多くて優秀な助手や通訳が見つかったので、とても便利な場所ではあったのですが、取材対象ではなかったんです。 
その見方が変わった一つのきっかけは、ブラジル日本人移民80周年の年でした。日本から沢山のマスコミの方が来たんですが、基本的に日本人移民が苦労して云々という見ないでもわかるような話が多い中で、僕はフリーで「すばらしい世界旅行」向けに2本企画をしました。 
一つは「シネマ屋」というもので、日本の無声映画を持ってブラジルの奥地を巡回していた人たちのドキュメンタリーでした。当時は電気もなければ娯楽の「ご」の字もないような時代でした。シネマ屋は、トラックの車輪を持ち上げてそこにベルトを通して映写機を動かし、真っ白な壁に映像を映していたそうです。当時を知る人によると彼らはそれこそ天皇陛下以上の扱いを受けていたそうです。日系人といえば、ひたすら農業・苦労といったことばかりでしたが、こういった娯楽面でも活躍した人がいる、ということを紹介しました。この人たちはある意味メディア屋としての私の先輩でもあります。 
その次は、日本の広島で被爆した後にブラジルに渡り、在ブラジル被爆者協会を創設した方のドキュメンタリーでした。当時、広島近辺で原爆被害にあっても、日本国内に居住していない人々にはなんら手当てがなく、それに対して運動を起こしたのが彼でした。また、ブラジルでは原爆についての正しい知識が普及していなかったため、就職や子供の結婚にまで影響が出るといった問題もありました。ブラジル人は、「ヒロシマ」「ナガサキ」と聞くと奇形児が生まれるというイメージを持っていたようです。 
毎年8月になると原爆に関する特集をブラジルでも放送するのですが、戦争自体に関する知識が浅く、被爆者の方々も事実関係を説明することはできても、心の傷についてはなかなかわかるように説明できない。で、メディアの方は当たり前の取材をし、被爆者のおどろおどろしい写真を載せておしまい。日本から来るメディアの方も、日本国内の被爆者の現状は把握していても移住者としての被爆者の心の部分までは共有できません。そういった点で同じブラジル日系人として何かさせていただけたらと思いました。
A: 私はこれまでに岡村さんの作品を何本か見させていただいていますが、日本のマスコミの表面的な取材には一人の視聴者としても物足りなさを感じていました。それをもっと腰を据えてドキュメンタリーとして取り続ける意味を見出されて、岡村さんのドキュメンタリストとしての道が始まったということなのでしょうね。 
B: それまで僕はテレビのディレクターをしていたので、いつも大きなカメラを持つカメラマンが横にいたんですが、1991年にしたアマゾンの日本人村の撮影を契機に、自分でアマチュア用のビデオカメラを使って撮り始めました。一般的に、カメラマンていうのは体育会系の体力勝負的な人が多くて、ディレクター時代は、とにかく気を使うことが多かったですね。カメラマンの機嫌が悪いと撮影ができなくて、機嫌をとったり泊まる場所を確保したりで大変でした。それが一人になると撮影対象の方に集中できるから、対象の方の都合に合わせて自由に動ける。対象者の機嫌が悪ければ撮影はあきらめて農作業を手伝ったりしました。夕方になったら「泊まっていくか?」って誘っていただいて一緒に飲んでいるうちに「実はな・・・」なんて話をしてもらえる。ぼおっとしたろうそくの光の中に見える表情。そんな瞬間を撮るのが僕の天職かな、と思うんです。 
A: 僕が岡村作品をいくつか見て感じたのもやっぱり今お話されたようなことでした。取材対象の方と心が打ち解けるまで時間をかけて付き合ってその上で撮影をするので、興味深いのはもちろんですが、内容が濃いと感じました。 
岡村作品のスタイルは、日本に住んでいる日本人にとっても普段我々にはわからないブラジル日系人の生き様や心のヒダまで覗くことができて、非常に貴重なドキュメンタリストが現れたと感じています。

■ネット社会だからこそ『一つの映像に皆が集まる』行為を大事にしたい 
A:? 今まで同じ南米の日系人社会なのになかなか横のつながりがなかったのですが、今日の上映会を機会に、皆さんに何かを感じてもらって、チリ・アルゼンチン・ブラジルなどの日系人社会のつながりができて行くのを興味深く見ていきたいと思っています。 
B: そうですね、最初にちょっとお話したようにブラジル日系人が日系移民を代表してしまっている感じが強い。ただ、ぬるま湯にいるブラジルの移民に比べるとチリの日系人は迫力が違う。僕が国司さんから聞いたり読んだりした限りでは、すごい人達がいるっていう感じなので、今回そういう方々に自分の仕事をどう見ていただけるのか興味があります。あとは、在外日本人は在外選挙なんかを通して日本とつながってはいるものの、在外日本人同士のネットワークって言うのはありそうでなかなかない。南米だけでいろんな日系人がいても、JICAさんなどの政府機関を除いた移住者レベルでの横のつながりがないですよね。で、そういった部分でも、日本語の作品をきっかけに集まってもらう、日本語作品で人が集まることのダイナミズムみたいなものがある。 
http://www.camarachilejapon.cl/share/images/B5/okamura-san/3.jpg僕はドキュメンタリー映画を作ることのほかに、基本的に僕が出席する形での外部上映会をしています。これは、日本でやるいろいろな上映会のように、『なんか責任がはっきりしない、感じるものがあっても会場の外に出たらおしまい、疑問があってもどうにもならない』という状態を避けたいからなんです。僕は製作の責任者として、皆さんと一緒に拝見して、質問があれば答えさせてもらう。そしておこがましい言い方かもしれませんが、それがもし感動できるものであればその感動を皆さんと共有させていただく。で、僕自身まだ現役の作家のつもりですから、皆さんがどう反応するかを見て次の作品にフィードバックさせていくんです。「チリの人たちはこういう風な見方をするのか」「ここはこういう風にした方がいいのか」、というのが僕自身の発見でもあるし、今後どうしていくかって言う部分で重要になってきます。 
最近はインターネットなどが普及して、一人で適当に好きなものを見るのが当たり前になってしまっていますが、僕の子供のころは野外上映会っていうのがあって、必ずしも映画に集中しなくても行けば知っている人に会えるし子供達は遊べる場所だったんです。僕の考古学の原点も含めていくと、チリの北部にトケバラ遺跡という1万年位前の岩絵遺跡があって、映像(絵)を通じて皆が集まっていた場所があります。このパーソナルな時代に、「一つの映像を通して人が集まる」、という人類が1万年も昔からしていた行為を大事にしたい。更に、日本語でのコミュニケーションが難しくなってきている時代に敢えてそれを試みたいという気でいるんです。 
A: 私が岡村さんに初めてお会いしたのが、3年前に神戸で行われた「フマニタス」の上映会の時で、上映語の質疑応答で会場にいらした人からの感想や質問によって更に作品が深まったのを、今のお話を聞いて思い出しました。 
そういう意味で本日の上映会でも質疑応答を含めて非常に楽しみにしています。 
B: 不思議なもので、僕を超えたところで我々が予想していない出会いがあって、それが何よりの楽しみなんです。まったく計算できないところで、人生が変わる。ポジティブな意味でですよ、もちろん。今はパソコン時代であるからこそ、敢えてそのダイレクトな出会いを楽しみたいし、皆さんにも楽しんでいただきたいなと思うんです。 
A: 主役の岡村さんを差し置いてあれなんですけど、私もこの上映会を開催するにあたって、人脈といえば同期シニアボランティアが4人いるだけで「まだ当分、上映はできないかな」と思っていた所に、任務の関係でお知り合いになったカマラの井田局長などのお力も借りて上映会の開催が実現した次第で、私にも岡村さんのおっしゃる「出会い」がいくつかありました。今回の上映会を今後につなげて、私の任期が終わった後もチリの方々が「もう一度岡村さんを呼ぼう」と企画をしてくださるとうれしいです。今日は本当にどうもありがとうございました。 
B: どうもありがとうございました。
以上

Camara Chileno Japonesa
ギャラリー