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祝 岸野友治さん(レストラン将軍オーナー)叙勲インタビュー

 平成19年度秋の叙勲において、おなじみ レストラン将軍のオーナー、岸野友治さんが旭日双光章を受章されました。チリ国在留邦人の社会福祉の向上、及び日本・チリ国間の経済関係発展に寄与されたことを評価されての叙勲ですが、「革命商人」岸田洋治さんのモデルとなってもいらっしゃる岸野さんの受章におけるご感想、チリとの関わりのお話を頂きました。実はあの日智文化会館の建物、あれも岸野さんが深く関わっておられたという逸話も。是非皆様ご一読下さい。 

インタビュー実施日 2007年12月17日
インタビュー 会報編集委員 

カマラ:   まずは、このたびの受章、誠におめでとうございます。今回の受勲はどのようにお知りになったのですか?


岸野氏:     叙勲推薦対象者は事前に大使館で人選がなされるのですが、在留邦人の叙勲対象者には条件があるそうです。日本人会会長を2期以上または文化協会などの類似機関に勤めた方、また以前に何らかの日本国の大臣賞またはそれに準ずる賞を受賞している方と聞いております。

カマラ:   そうなんですか? ということは岸野さんも大臣賞は以前に受賞されているということですね?

岸野氏:      はい。平成元年にカマラを通じて通産大臣賞をいただきました。これはカマラの推薦がな
いと戴けない賞なのですが、確かカマラの会員の方でも2、3人、受賞者がいらっしゃると思います。1人は元日水の坂本さんともう1人は在留邦人で海草をやっている成瀬さんという方。

カマラ:   なるほど。。。推薦があってそれから決まるんですね。今回勲章を受け取りに日本に行かれてたのですか

岸野氏:   はい。

カマラ:   授与は皇居で行われたのですか?


岸野氏:     いえ11月3日の文化の日に直接天皇陛下から戴く人はもっと上の人間国宝クラスの方たちです。その他、各省が選んだ叙勲者が700人から800人いるそうですが、その人たちは2007年11月7日にまず各該当の省で賞状と勲章をもらって、各省で昼食をとり、勲章をつけてバスにのって皇居へ向かいました。皇居へ行くと外国のお偉いさんを迎える大広間春秋の間というのがありまして、そこで男が3列縦隊、女性が2列縦隊で並び、中で待っていると、天皇陛下がおいでになり、「皆さん今回はおめでとうございます。これからも身体に気を着けて益々頑張ってください」とお話しになり、ひと回り皆さんの間を通ってご挨拶されました。お言葉を頂戴しただけですが、それでも大変感激しましたね。



<チリ渡航へ>-----------------------------------------------------------------


カマラ:   それでは岸野さんがチリに来られた経緯からお話願えますでしょうか。


岸野氏:     私が横浜を出たのが、1958年の12月31日午後6時。(一同、『よく覚えてますね〜笑!!』)川崎汽船の1万から1万2千トンの貨物船“チリ丸”という船でチリへやってきました。

カマラ:   その頃は智利丸(チリ) 玖馬丸(キューバ)、秘露丸(ペルー)など全部漢字で書くんですが、そういう船があったようですね。


岸野氏:     当時私は拓殖大学の生徒だったんですが、日本中捜しても、海外旅行向けの旅行社なんて一軒もなかったですし、日銀もたかだか学生が海外に出るだけの為に外貨のわりあてなんかしてくれませんでしたから。。お金がないんですよ、輸出業者がほんのわずかな枠をもらって海外に出張に行く、そんな時代でした。

そこで当時唯一の直航定期航路をもっていた川崎汽船さんに、「定期航路便に乗ってチリに行きたいんで乗せてくれませんか?」って頼んだのですが、規定では職員またはその身内か、川崎汽船の荷主のみと断わられました。諦めかけていた時、大学の海上運送ゼミの先生から、「岸野君 そういえば南米行くって言ってたけどその話決まったかい?」って聞かれたので、「いえ船がなくてダメなんです。断られました。」と答えたところ、「君はそういう時に僕を使ってほしいんだね〜」って。。。(笑) その先生は以前海運局の課長さんをやっておられてコネがあったんです。翌日さっそく先生の名刺を持って川崎汽船さんに行ったところ、すぐOKしてくれましたね。

 

当時は川崎汽船さんの船でもチリに到着するのに52から53日かかりました。私の場合は58年12月31日に横浜を出港して59年2月20日にバルパライソに着きました。サンフランシスコ、ロス、メキシコ北部のマンサニージョなどの港に立寄りましたが非常に楽しかったです。

カマラ:   結局、お客さんとして乗れたのですか?

岸野氏:     そうです。推薦状があったので、ちゃんとしたお客さん用の船室をあてがわれました。食事も一般船員とは別の、高級船員の食堂で食べましょうっていわれて、とてもありがたかったですね。

カマラ:   しかし行き先はなぜチリだったのですか?


岸野氏:     拓大へ入ってすぐ同級生と「是非いつか南米行こうよ」って話していたのですが、よく考えてみると当時南米に行ける手段は移民しかなかったのですよ。しかも農業移民でしかないので、南米へ行く人の殆どは農家の次男三男なんですよね。都会の人は、まず東京近辺の農家のところに行って2,3ヶ月お手伝いして、農業経験者という証明書をとってから移民の資格をとりつけていたようです。私は商業を希望していたので別手段を探しました。しかしそうはいっても肝心の伝手がなく困っていた矢先、父から、「確かチリには従姉がいたはずだから、その旦那に手紙を一筆書いてみなさい」と。。

 

従姉の旦那さんに一筆書いたら、「若い人が来てくれず困っていた。是非来てほしい」とのことで、受入態勢は整ったのですが、今度は別の問題が発生しました。片道の船賃はやっと払えましたが、渡航許可をもらうには往復の船賃の領収書をまずチリの外務省にみせないとだめなんですよ。というのも当時チリに東洋人が入国できるのは近親者訪問という名目でそれも6ヶ月間のビザしかみとめられてませんでした。しかも必ずチリから出国するという証明になる帰りの切符が要求されるわけです。

カマラ:   今と一緒ですよね。


岸野氏:     そう。最終的には銀行にいた叔父に3日間無利子でお金を借りて川崎汽船へ行き、往復の船賃の領収書をもってチリ領事館へ持っていきましたが。。。 当時は横浜の外人墓地の裏にチリの領事館があったんですよ、私は千葉の市川に住んでいたので、電車で東京湾を半周以上して手続きに行きました。

 


<チリでの生活>---------------------------------------------------------------


岸野氏:   チリに着いてからは、その従姉の旦那さんに2年間奉公しますということで、59年と60年を彼のお店でお手伝いしました。サンチャゴ市内にと殺場があったのですが、そこの労働者相手にビールやサンドウィッチを売るという店でした。2年の約束の期限が切れた後、次はどうしようかと思っていたところ、所属していた2世の硬式野球部の監督が、たまたまチリ三井物産の副支店長で、その人から「どうだい職は決まったか?」と聞かれました。私は「あっちこっち歩きましたがみんな断られました。アタカマ鉱山まで行って仕事を探しましたが、あなたは都会の青年だから山の中では勤まらないよっていわれて。。困りました」と。。。そういう話をしていたところ、その副支店長に「行くところないんだったらうちへ暫らくきたら?」と勧められチリ三井物産に入りました。1961年のことでしたが、丸1年間はほとんど会社で小遣いさんをしていました。

カマラ:   現地採用だったのですか?


岸野氏:     いえいえ、現地採用でもなんでもなく、ただの臨時採用の小遣いさんでした。朝はお茶くみから、中央郵便局に手紙をとりに行くことまで。。またテレクッスのコードを秘書が解読したものをタイプで打ちなおし担当者に配ったりとかそういうことをやってました。

 

そうこうしているうちに社内でブリヂストンタイヤ担当の席が空き、「君、タイヤ商売やってみるか?」っていわれ、「なんでもやります」ってことで担当にしてもらったのですが、鉱山向けのオフザロードタイヤを販売するのに、毎月15日間はサンチャゴからアリカの間を走りました。しらみつぶしに鉱山の客先を回るわけですよ。

砂漠の道を走りながら、注文をとって途中のオステリアからテレックスを打って今回の売上などを本社へ報告したり。。サンチャゴへ戻り、次の15日間はオーダーを整理してまた次の月の2週間は出張と。。これが私のタイヤ販売の生活でした。

カマラ:   サンチャゴからアリカまで車で行ったり来たりされたというのはかなり過酷でしたね。


岸野氏:     私も若かったですからね。道も舗装されておらず砂漠の道で、車が走るたびに砂を彫っていくものですから道路もそろばん状になってしまいます。埃はたちますし、時間もかかりますし、当時はろくな車もなかったので中古車をだましだまし運転しました、もちろん途中でエンコしたりしえらい目に遭いましたけど、、

 

 

カマラ:   その頃、サンチャゴには日本人はどのくらいいたのでしょうか?


岸野氏:     今の商工会議所のメンバーの3分の1程度じゃないでしょうか?暴動の頃は駐在している会社の数は少なかったですね。町で日本人に会うということはまずなかったです。ほんとうに珍しかったですよ。。セントロの真中で日本人に会った時には 「そういえば今日は日本人にあったよ!」 みたいな・・・

カマラ:   もちろん日本食レストランなんてなかったですよね?


岸野氏:   なかったですね。

 

<革命商人として>-------------------------------------------------------------

 

岸野氏:     タイヤビジネスの傍ら、関連の自動車ビジネスもやりました。自動車輸入が禁止されていた中で、北のアリカ、南のコジャイケ、プンタアレーナスは僻地を開発しようというチリ政府の行政指導でフリーゾーンになっており、そこだけは車も輸入できました。アリカへは川崎汽船さんの船でもってこれますが、コジャイケ、プンタアレーナス向けには、南アフリカダーバンでトランスシップして、コジャイケ、プンタアレーナスを通ってカナダまで北上するドイツの貨物船を起用していました。1ヶ月に4台とか5台とかなので、最後には落穂拾いみたいな商売はやりたくないと東京から苦情が入ってきましたね。

 

そうこうしているうちに、陸軍からトヨタのランドクルーザ−入札の話があり、自動車輸入禁止という国において、なんとか軍にコンタクトがつけば後続のオーダーも取れるいい商売になるのではないかと、死に物狂いで追いかけて注文をとりました。ほとんど半年くらいの間、今はやってはいけないですが(笑)毎晩担当官と飲んで歩きましたね。。

カマラ:     丁度その辺りのお話が例の深田祐介の小説「革命商人」にでてきますが、あの中に出てくる話はほとんどが事実と思ってよろしいですか?

 

岸野氏:   そうですね。 とにかく家に帰るのは毎日2時、3時でしたね。

そういうことから、相手も気を許してくれまして、難しいものもとれるようになりました。

軍の入札が決まったのが、丁度フレイからアジェンデへの政権交代のときなんですが、政権が変わって左になったので、今度は支払いがなされるのかどうかわからないという話しも出て、輸銀あたりから色々言われ大変な状況にありました。

チュキカマタ鉱山向けのタイヤも、革命勃発時は無政府状態になっているわけです。船は横浜から出港間際なのですが、通産省の保険が付保できないんですね、どうするかと相当揉めましたが、結局、この銅局(コデルコ)が潰れたらチリ自体が全部潰れます、銅局が生きてる間は仮に今無政府状態でも、支払いに支障は出ないだろう。タイヤは銅を開発するための手段でもあり。。ということで当時の社長とも色々と話し合い強引に船積みしました。銅局からは相当感謝されました。

 

カマラ:   相当な混乱だったのでしょうか、革命の間は?

 

岸野氏:   町の中は2,3日戦闘状態にありましたが、あっちこっちで混乱がおきて軍部が統制とれないそういう革命ではなかったですね。私は計画的で立派な革命だったと思っています。

カマラ:   日常業務も革命の影響で不便になるということはなかったですか?

 

岸野氏:     大きな混乱はなかったですが、革命直後に、官庁の担当官が交替し、うまくコンタクトがとれずタイムロスが発生したということはあります。

 

   話は変わりますが、自動車が自由化になったのが1975年10月でした。軍が国産化か自由化かという話し合いを続けていて、やはりチリ政府もこんな小さな市場で国産をやってもペイしないと判断し、自由化に踏み切ったわけですね。しかし自由化といっても車整備のインフラが問題でした。

うちは軍への販売時に納入した車の整備工場をもつという契約があった為、小さいながらも整備工場とある程度の部品をもつことになりインフラは既にもっていました。よって自動車の輸入が解禁された時は他のブランドに比べて非常に有利な立場にありました。まあ、そういうことが積み重なって今のトヨタチリはあるんです。

 

<奥様のこと>-----------------------------------------------------------------

 

カマラ:   その当時はお一人でお暮らしになってたのですか?

 

岸野氏:     女房が来たのが、1965年です。私が最初にブリヂストンの技術研修で日本に帰った時に、父と母にお願いして、「嫁さんを探してくれと」。。ですから私と女房は面識はなかったのですが、彼女の姉が洋裁と和裁の先生で、教師をしていた父の学校で働いてたことがあり、また父親同士が飲み友達ということもあって紹介されました。

カマラ:   チリに行くことにはかなり決心がいったでしょうね。

 

岸野氏:     そりゃ、うちの女房は大変だったと思いますよ。たまたま同和鉱業のサンチャゴ駐在員の方が一時休暇で日本に戻っていて女房とサンチアゴまで同乗していたですが、その方いわく、「奥さん泣いてましたよ」って言われて。。

カマラ:   それはつらいですよね。違う文化だし。

 

岸野氏:   予備知識もなかったでしょうし、今は日本レストランがサンチャゴにありますからお客さんが来ても家庭で出張者を接待する必要はありませんが、当時はお客さんが来られると、駐在員の奥様方は社宅ヘ行って料理を作らなければいけませんでした。料理を作るのに出かけていくと“駐在員の妻たるものは”という教えを駐在首席の奥様から教わるわけなんですね、女性の生活なんかも今に比べると大変窮屈な時代だったと思います。

 

<日本人会・カマラ・日智文化会館とのかかわり>--------------------------------------

 

カマラ:   チリ三井物産、トヨタチリ在勤時代を通じ、日本の経済に貢献され、また日本人会の会長を務められ、日智交流に尽力なされた結果が、通産大臣賞、そして今回の受勲ということですね。

 

岸野氏:   ここで日本人会会長を2期引き受けた理由を説明させていただきます。1959年私がチリに来た頃の日本人会というのは、仮住まいの建物で、その裏庭には当時の商工会議所の前身であった経済懇談会が小さなネットを張って会員がゴルフのスイングをしていたのを覚えております。

カマラ:   今の商工会議所のあるアルカンタラですか?

 

岸野氏:     いえ、今のクラウンプラザホテルの近くにGeneral Jofreという通りがありますがそこです。しかし後にオーナーに追い出されて、次はAndres BelloとManuel Monttの角に女学校がありますが、その隣の小さな家を借りました。同じく経済懇談会と同居してまして、土曜学校をやって日本語を教えたりしていました。

ただ、経済的な問題から一時日本人会館を閉鎖し、日本人会と経済懇談会は分かれ、経済懇談会はホテルの会議室を借りて定例会の会議を行っていました。

そんな時、当地で唐沢虎太さんというご老人が亡くなられて、身寄りがないもんですから住んでいた家を国に没収されたんです。「大正会」という日本人会有力者の集まりの会がありましたが、彼等がなんとかあの家を取り返して日本人会の会館にできないかということで、日本国内に親戚を探し、「唐沢さんの持っていた不動産を日本人会に寄贈する」という一筆をもらい、チリの管財局と交渉して、なんとか日本人会に返してもらいました。しかし、いざ日本人会がその家を会館にしようと思い、物件をみたところ、とても当時会館になるような代物ではありませんでした。まさに“うなぎの寝床”のような家で。

 

私は大使館の文化担当官と何度も交渉して、日本人会館の建設に資金供与できる財団の資料集めを御願いし、内容検討の結果、万博基金協会の資金供用条件が最適と判断、大使館を通じて会館建設のプロジェクトの申請をすると共に、当時の大使より万博基金協会の理事をされていた鈴木都知事に紹介状をいただき、私が直接鈴木都知事に陳情の結果、資金供用の許可取り付けができました。

 

当時トヨタチリの社長をしていた私は事前にカマラの会頭他理事の了解をとりつけ、カマラの定例会の時に時間をいただいて、カマラの皆さんに頭を下げ各社からの寄附を御願いしましたところ、カマラも是非協力しようということを言ってくれました。従ってこのプロジェクトが終わるまでは、私が責任をもって日本人会会長を勤めますということで2期にわたって会長職を務めたわけです。

その当時副会長をしてたのがASAHI TADASHI氏 そして、今回私と一緒に勲章をもらったGRADYS KUKINO女史。彼らも頑張ってくれました。Asahi Tadashi氏はチリでも有名な設計士なので、日本人会館の設計に関しては色々なアイデアもいただきました。関係当局の許可が必要だったのですが、彼がそういう手続きは全部やってくれました。

でも本当に幸運だったのは、唐沢さんのうなぎの寝床みたいな家が売れたことです。。

カマラ:   その物件はどこにあったのですか?

 

岸野氏:   エル・サルバドール通りとサンタイサベル通り近辺です。

細長すぎて普通の家用に買ってくれるような土地じゃないんですよ。しかしその隣接地に友達が自動車の代理店をやってまして、家の話をしたら、「おれも整備工場を拡張しようと思ってたんだけど、この土地借りたいと思ってたんだよ」って。。「じゃあ 買ってくれっ」ということで、リーズナブルな金額で買ってくれたし友達同士だから金銭の問題もなくすべてスムーズに売買が成立しました。

そのお金で購入しようと思った最初の日本人会の候補地は、プロビデンシアの市役所近くにあったんですが、たまたまその近くに住んでる人に「あんたの家の近くに土地を買って日本人会会館を作ろうと思ってるんだよ」って言ったらその人が2,3週間経ってやってきて、「近所の人がそんな会館ができると人の出入りが多くなって不用心だって反対してる」ってことだったので諦め、漸く今の商工会議所が入ってる日本人会の物件を探しあてました。学校のすぐ隣で周りに変なお店もなく、東京でいえば文京区みたいに静かな場所で、また物件のオーナーが私と同じくClub Golf de la Dehesaの会員だったのも奇遇で幸運でした。

カマラ:   (一同) なるほどね〜

 

岸野氏:     顔見知りだったんでスムーズでしたよ。「セニョール.あんた買ってくれるの?」って。。。契約履行もまったく問題なく恵まれましたね。

カマラ:     そういういきさつだったんですね。実は別の人から今のカマラのある場所が元々日系人が持ってた家だと聞いていたので、、

 

岸野氏:   日本人会の会員でも日智文化会館ができたいきさつを知らない人が多いですよ。

カマラ:   その会館が出来たのが何年くらいでしたか?

 

岸野氏:     今から19年前です。会館ができて、当時同居してたのが日本人会、カマラ、アベハ(チリから日本へ行った研修生の会)それと日智文化協会でした。その4団体が小さな会館を使うわけですが、しかも仲良く使っていただけないということから運営委員会を作って、私がその運営委員会を軌道に乗せるまで責任をもってまとめましょうと宣言し運営委員長を10年間やりました。

 

カマラ:   なるほど今の商工会議所の事務局があるあの場所は岸野さんのお陰だったんですね。

 

岸野氏:     今回の叙勲の祝賀会でも、私はカマラ理事の方々にこのお話しを聞いてもらいたかったんでご招待させていただきました。日智文化会館がこのような経緯で皆さんのご協力のもとでできたということと、こんな小さな社会ですからこれからも日本人会と商工会議所が仲良くしていただいて、日本とチリの友好のために頑張って欲しいとそういう気持を伝えたかったのです。

カマラ:     在チリ日本大使館のホームページの叙勲のお知らせで、岸野さんがチリ国在留邦人社会福祉の向上及び日本チリ国間の経済発展に貢献した。。と書かれてましたが、まさに今おっしゃったことですね。

 

<レストラン将軍>

 

カマラ:   ところで最後になりますが、レストラン将軍を始められたきっかけはなんだったんですか?

 

岸野氏:     さっき申しましたように、その当時日本から出張者が来てもなかなか接待する場所もないので、できれば個室があって接待ができるレストランを開いてみたいなと思ったのがきっかけです。接待に使ってもらうにはやはり場所も大事なので、表通りに面した場所を色々探しましたがなかなかいいのがなくてね。。。 ふらっと歩いてた時に、大きさも丁度よくいい物件があったので、中に入ったら丁度オーナーがいて「レストランやろうと思っているのですが、売ってくれませんか?」って聞いたんですよ。そしたら「売らないわけじゃないけど今すぐ売ってくれっていうのなら高いわよ。市場価格の3割増しでどうかしら」って言われましたが、結局「御願いします」といって買いました。それがこの店で1987年のことですね。

カマラ:   まさに会館のプロジェクトが終わった頃ですね?

 

岸野氏:   ちょうどこの店が完成する1年前かな会館ができたのが。来年でこの店満19年になります。

カマラ:   日本ぽいデザインですが、これも岸野さんがされたのですか?

 

岸野氏:   そうです。全部自分で考えましたね。

カマラ:   その当時コックさんは日本からお呼びになったんですか?

 

岸野氏:     それが完成間近になって、肝心のコックさんがいなかったんです。しかし皆さん大滝さんってご存知ですか?あの大滝さんがうちの最初のコックさんだったんです。どういうルートで来てもらったかというと、スキーヤーで有名な三浦雄一郎さんがオーナーをつとめるスキーヒュッテの料理人の一人だったんですね、三浦さんはチリにいらっしゃる私の知人の西村さんという方と北大の先輩後輩の間柄で親しくされていて、その関係で大滝さんを世話してもらいました。それから当時の野見山大使の料理人として日本から付いてきたのが、今の佐藤君なんですよ、この店が立ち上がった時に野見山大使は日本へ帰国されましたが、佐藤君はチリ人の女性と日本で結婚し、再びチリへ戻るということであったので、この将軍に奉職してほしいということで、彼にそれ以降引き続き仕事をしてもらっています。

カマラ:     なるほど。 非常に興味深いお話をいただきほんとうにどうもありがとうございました。私達の知らない歴史を多く語っていただき、カマラの会員の皆さんにも現在の会館(事務局の建物)がどのようにつくりあげられたかということを理解していただけると思います。

 

岸野氏:   いえいえ、皆さんに理解していただければ光栄です。本当に皆さんには大変なご協力をいただきました。

 

 

            (この記事は日智商工会議所会報2008年2月号に掲載されました。)

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